(4) 平家物語 「俊寛僧都」
鬼界ヶ島での棲息。
シテ――俊寛僧都。
ワキ――赦免使。
ツレ――平判官康頼。
ツレ――丹波少将成経
高倉帝世継ぎの安産祈願による大赦。赦免使が差し出す文書をツレが読み上げる。赦免状にはツレ二人の名しか無い。
シテの驚き、そして問答のあと………、
シテ「さては筆者の誤りか」
ワキ「いや、都にて承り候も、………俊寛一人をば、この島に残し申せとの御事にて候」
恐怖と孤独の泣訴、離れゆく舟にしがみつき、叩き追われる。………クライマックスへ向かう前に、「現在能」が、その特性を最適な表現で示す悲嘆の美を見出す。
20世紀のあらゆる前衛芸術が試みる「物理的時間の破壊」、あるいは、それからの脱却を、世阿弥以後、本流となった「夢幻能」――日常性否定――、更なる再度否定が、この物理的時間に従う「現在能」の古典主義的整合性を強調する。
源三位頼政も亦、能舞台で演じられる一人の主人公である。
しかし、俊寛についての描写は実に多様を極めている。例えば、ツレ二人の神信心にも加わらぬ拗ね者としての俊寛。傲岸と言われたこの僧都が、一転して人間の弱さを露呈する。
作者不明の作品だが、この作品では「特殊面」を用いている。通常、「現在能」ではツレは「直面(ひた面)」が用いられる。
「直面」とは面を付けない顔面のことである。能の世界では、これもまた面の一つとして呼び慣らしている。したがって、この「直面」での演技は、表情の持続、その時間の長さによる、困難が付きまとう。
だが、この「俊寛」では、「俊寛」と名づけられた面が用いられている。これを「特殊面」という。
数多い「能」作品の中でも、「俊寛」の名場面は夙に有名。
僕の観点では、俊寛が大河ドラマに登場する事は、ドラマの秀逸性を保持するための必要条件となる。決して十分条件ではない。俊寛が要塞にも等しい己が別荘 を「平氏転覆の陰謀の場」とした史実もあるが、これでさえ省く意味は見出せない。その上、俊寛が見せる内奥の激しい変貌は、観者の胸を打つ情景を描き出し ている。「能」の終わりは、孤島に残された孤影の後姿で締めくくられる。
「大河ドラマ」は、しばしばナレーションを用い、現代の姿を映像として提示していた。
この「能」の映像を、こうした形で提示することは、ドラマの格調を高めるに違いない。しかし、「大河ドラマ」は「低俗な興味」のために、しばしば、重要場面、あるいは格調の映像を放棄してきている。今年の「ドラマ」に果して期待できるだろうか?
- 編集日時:2012/2/20 15:23:27
- 回答日時:2012/2/19 19:17:52
0 件のコメント:
コメントを投稿