2012年5月22日火曜日


 (11) 平敦盛

摂津の国(神戸)の西端、須磨の地に伝わる物語と哀歌。この須磨寺には平敦盛と熊谷直実の、「戦いの像」がある。

だが、戦いは瞬時に終わった。
沖にたゆとう平家の軍船、一の谷合戦で破れた平家の武者たちが、沖へ向かって逃げ惑う。やや遅れて、連銭葦毛の馬が、波打ち際に入ろうとする。追撃してき た熊谷直実は、目前の、手中にし得る手柄に心躍らせた。「引き返せ」と勝負を挑んだ。滋藤の弓、黄金作りの太刀・・・・・・・・・、高貴な身分を表す武者 は引き返し、直実に応じた。
直実は、すぐにも組み伏せた対手の若さと美貌に心動かされた。十六、七歳と思われる。直実の息子・小次郎とほぼ同じ年頃。直実は心痛めて、勝負を放棄しよ うとする。しかし、後方から進撃してきた源氏の武者たちの姿を見て、「よも逃れさせ給はじ」と自らのうちに嘆いた。嘆きのうちに若武者の首を切り落とし た。

その前、名を尋ねた直実に、若武者は言った。「名乗る必要はあるまい。この首を持ち行けば、知らぬ人はいないはず。汝の手柄にせよ」。

熊谷次郎直実は、やがて出家した。

一の谷(いちのたに)の 軍破れ(いくさやぶれ)
討たれし(うたれし)平家の 公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨(すま)の嵐に
聞えしはこれか 青葉の笛

この「青葉の笛」は、かつて小学校唱歌として親しまれていた。だが、学校で習う前に、子供たちは、口伝えで母親からこの歌を学んでいた。

敦盛の首を包んだ直垂は、もちろん、敦盛の鎧に付いていたもの。直実が直垂を取って首を包もうとしたところ、錦の袋に入った笛があったという。・・・・・・・・・そういえば、戦いの一日が終わり、夜の闇に切々と流れてきた笛の音は、平家の陣所からの音色だった。
「何という優雅さ」と、直実は身分の高い敦盛への敬意をいっそう募らせた。
一武将に過ぎない直実は、遥か上位の「平家の公達」の首を、当然、高貴な包みで覆わねばならない。敬う心と悲哀の涙が、直実の行為を導いた。当時、また、 いつの世も、戦いの場での「恩賞のもと」、敵方の首はそのまま持ち歩いた。激闘ともなれば、当然のように憎しみもわく。しかし、熊谷直実の胸のうちは違っ ていた。

この話は、やがて直実自身の口を通して、源義経に伝えられた。この高貴な若武者の最期に、涙せぬ者はいない、と義経は語った。


近世への夜明け、戦国の世を統一した織田信長は、出陣に際して、必ず謡曲「敦盛」を舞ったという。「人間五十年・・・・・・・・・」で始まる謡に、信長は自らの死生観を重ねたと伝えられている。


  • 編集日時:2012/5/13 01:36:03
  • 回答日時:2012/5/13 01:00:10

 (10) 歴史書の推奨

1)マルグリット・ユルスナール(Marguerite Yourcenar)、「ハドリアヌス帝の回想」(Memoires d'Hadrien)
2)辻邦生、「春の戴冠」
3)クリストファー・ドーソン(Christopher Dawson)、「ヨーロッパの形成」(The Making of Europe)


歴史好きでない人に、お薦めですか?
だから、僕は、まず、小説作品をお薦めしました。

1)M・ユルスナールは、20世紀後半の新世代「ヌーヴォー・ロマン」作家の一人です。実在のローマ皇帝を描いたこの作品で、フェミナ賞を受賞。たちまち諸外国に翻訳された。イギリス、アメリカでベスト・セラー。

2)辻邦生の小説の中には、史実を背景とした作品が多い。その上で、この作家に独特の、「語りべ」を通して叙述されていく歴史の転換期が読者の心の深層 に、いくつかの主題を投げかけてくる。例えば織田信長を描いた「安土往還記」もそうであるが、ここでは、ルネッサンス期のフィレンツェが絵画のように描か れていく。実在の美術家たちを中心とした物語と言えよう。

3)C・ドーソンは、有名な歴史学者です。
既に、上記の2作品、ヨーロッパの歴史叙述に、あなたは馴染んだので、ここで歴史的論稿をお薦めします。著者の深い洞察力は、きっとあなたを満足させてくれるでしょう。


上記(1)、(3)は翻訳が出版されています。


  • 編集日時:2012/5/4 01:56:08
  • 回答日時:2012/5/4 01:51:19

 (9) 8人の戦国武将についての回答

質問者さんが掲げられた人物8人について、僕の考えを記述します。
記述の順番は、僕の任意にさせてください。

●波多野秀治、別所長治
この二人については、他の6人と比べる程の特別な事跡はありません。

●浅井長政
父・久政に従って、義兄・織田信長を裏切り、浅井家滅亡の道を歩んだ。
似たような苦境を高山右近の事跡に見出す事ができる。しかし、喩えてみれば、課長クラスの右近は、父・飛騨守の命令に従わず、直接の上司、即ち部長・荒木 村重の側に立たなかった。社長・織田信長に忠誠を誓い、高山家の安泰を獲得した。だが、結論への道程は長く、右近の苦慮は続いた。右近を助けたのは、彼を よく理解し、その彼を惜しんだ信長と、この信長のメッセージを齎してくれたポルトガル司祭に他ならなかった。
長政の性格は、あまりにも凡庸だった。父子間の対話においても、時流を省みない久政に押し切られ、そして理念を欠く朝倉義景(久政の上司)の側に当たり前のようについていった。
*人物評――凡庸

●荒木村重
最後まで「駆け引き」で事を運ぼうとした。裏切って毛利方につき、反抗の末、数百名に上る家族・縁者を城に残したまま、身一つで逃走した。当然のように、 残された縁者たちは織田軍の捕虜となった。人質である。当時、こうした背信行為は、人質の犠牲によって成り立っていた。そこで村重は「駆け引き」の愚行に 出た。「人質殺害が正当であるとしても、これだけ多くの人質をあやめる事は、信長の世評を下げることになる。そんなこと、信長にできるはずがない」。
誰の眼にも読める村重の卑劣さに、信長は怒った。信長を残虐と解釈する今日の小説家たちを、その時代の人々は嘲笑うだろう。
*人物評――卑怯

●足利義昭
これは凡庸以下の愚劣の塊りである。形すら無い、名前ばかりの将軍の威光が、日本全土に行き渡ると錯覚している。たとえば武田信玄たちが、「将軍の命令」で打倒信長で結集したとしても、それらは全て利害打算の成り行きなのだ。
それすら読めず、頼りにした信玄の死など読めるはずも無い。彼の滅亡は自明の理と言えた。
*人物評――愚劣

●松永久秀
異才の反骨者である。ただ、足利将軍家も、将軍家をないがしろにする三好家も、ともに「お粗末な人材の集合」に過ぎなかった。さんざん利用し、ポイするの が余りにも易しすぎた。しかし、「そのうち、騙し討ちにしてやろう」と目論んだ相手、織田信長は、簡単にはいかなかった。それを知るにつれ、久秀は反抗の 時期をできるだけ延ばしてきた。だが、その時期が来ないまま、結局は信玄中心の「保守連合」に、盲目的に、飛び乗るほか無くなっていた。自滅への道であ る。
このへんの経緯は、井上靖の短編「平蜘蛛の釜」に上手に描かれている。
*人物評――年月をかけた自滅

●明智光秀
小才、教養の徒、と僕はいつも評している。この人物における教養とは、伝統の中でも特に内実に乏しい部分を有難がる姿をいう。当時、およそ宗教とか信心の かけらも無い「堕落悪僧」の、「乱れの場」である叡山などへの崇拝から逃れられない自身のありかた、を頑迷につらぬいた。しかも、その小才を以って一国の 統治を可能と自惚れる「自己への狂信」。
光秀の愚行が、本来、日本統治力の無い徳川家康にその場を与えてしまった。「鎖国三百年に及ぶ退歩の歴史」。その後に続く、「後進国としての富国強兵策」。やがて「侵略国家としての悲劇的結末」。全ては「本能寺変」が齎した。
*人物評――狂気の愚行

●豊臣秀吉
一兵卒から司令官への出世。たしかに例を見ない才能の持ち主である。しかし、その才は、優れた指揮者のもとで発揮される種類のものである。指揮者がなくな れば、秀吉の本質がそのまま表に出る。凡人に相応しい「権力欲」。凡人が陥りやすい「残虐性」。彼の「戦争外・残虐性」は、多くの記録に残されている。こ の人物に「統治の理念」など学べる筈も無かった。豊臣家の悲劇的な末路は、やはり「本能寺の変」が齎したと言えよう。
*人物評――権力欲と残虐


  • 編集日時:2012/3/29 17:02:16
  • 回答日時:2012/3/27 19:16:32

 (8) カトリック、プロテスタントの人口比

ごく最近の正確な資料は存在しない。僕が参考にした資料は『国際情報事典PASPO』の2002年であるが、同時に僕がボストン滞在中に、カトリック教会関係の施設、その他から得た資料をもとにしている。
その結論は、次のような回答になります。

比較的正確な記述は、カトリックとプロテスタントの比率に限られる。したがって、キリスト教以外の人口比は、下に記したパーセンテージ以外の比率から割り出してもらうことになります。

(1)ヨーロッパ―――カトリック50.0%、プロテスタント30.7%
(2)北米大陸―――カトリック52.7%、プロテスタント41.6%
(3)中南米地域――カトリック93.7%、プロテスタント5.1%
(4)アジア地域―――カトリック4.1%、プロテスタント3.2%
(5)オセアニア―――カトリック26.6%、プロテスタント68.6%

(6)アメリカ合衆国――カトリック24%、プロテスタント22%
(7)フィリピン――――カトリック93%
(8)日本―――――?


[解説]

(1)ヨーロッパでは、共産主義政権の消滅によって、圧倒的にカトリックとギリシャ正教の人口が増加した。しかし、例えばポーランドでは、共産圏時代から カトリックの人口は90%を超えていた。クレムリンの弾圧も、人々の信仰にまでは力及ばなかったのかもしれない。フランスとドイツについて言えば、カル ヴァン、ルーテルを輩出した国ではあるが、依然としてカトリックの人口がプロテスタントを上回っていた。特にフランスにおけるカトリックは、その人口比率 ばかりでなく、請願者(教会、修道会への入会志願者)の数において常に他国を圧倒していた。

(2)北米大陸におけるカトリック人口は、20世紀に入って急激に増加した。この大陸はアメリカ合衆国とカナダの二国に限定されるが、メイフラワー号によ る、ピューリタンたちの移入は、まだ建国以前の時期に過ぎなかった。例えばUSAへの移住者を見た場合、初期のピューリタンたちよりも、スペイン人(フロ リダなど)、フランス人(ルイジアナなど)の方が多いと認められる。また、カナダにおけるフランス人が占める人口比はもともと高かった。

(3)中南米地域のブラジルのみがポルトガルの植民地で、他は全てスペインの植民地であった。いずれにしても、建国者たちがラテン系に統一されていたことで、当然のようにカトリックの人口比は高い。

(4)アジアにおけるキリスト教徒の比率自体が非常に少ない。イスラム教徒に次いで、ヒンズー教徒、仏教徒と続く。
しかし、フィリピン一国については、完全なカトリック国であり、また韓国における最近の動静は、東ヨーロッパと同様、カトリックの増加を告げている。

(5)オセアニアのプロテスタント人口には、英国国教会が高い比率を占めている。


(6)アメリカ合衆国が独立した時期は、僅か13州に過ぎなかった。したがって「ピューリタンたちによる建国」という標語は真実から外れている。(2)の北米大陸で記述したが、USA自体にもスペインやフランスからの移住者は増えていた。
僕がいつも不思議に思うのは、「新しい国USA」と、その新進気鋭ぶりが語られるが、ここにはひとつの矛盾がある。イギリス本国での迫害から逃れてきたア ングロサクソン人の奇妙な保守性である。例えば美術にしても、音楽にしても、USAが独自の創出を始めたのは、第二次大戦後からと言っても過言ではない。 それほどに、アメリカは保守的な国といえた。迫害者イギリスを尊重する「矛盾に満ちたWASP伝説」が長い間維持されていた。ケネディ大統領以後、この WASP伝説は打破されたのである。

したがって、特に20世紀に入ってからは、ボストン、ニューヨークなどの北東地域(メイフラワーゆかりの地域)における、カトリック教徒の増加は著しかっ た。ボストンはアイルランド系人口が圧倒的に多く、ニューヨークも1950年代の有名なファルトン・シーン司教の努力によって、カトリック人口は急増し た。ベトナム戦争の頃から、プロテスタントの減少が目立ち始めている。

(7)フィリピンはスペインに次いでアメリカの植民地となったが、宗教はスペインのカトリックを維持していた……、と考えられがちだが、その時期既に、ア メリカは必ずしもプロテスタント国家ではなくなっていたのである。アジア全体とすれば、キリスト教の人口は非常に少ないが、フィリピンだけで考えれば 93%がカトリックである。

(8)日本という国は、昔から信仰心の乏しい国である。その良し悪しは別として、宗教は常に政治と結びついていた。現代から遡れば、人々は「政治と結託し た高僧たち」のマインド・コントロールのもとに、かなり熱烈な信仰を持っていた時期もあった。しかし、今日、伝統的な仏教への、真の信仰者の比率を探索す ることは殆んど困難である。

  • 編集日時:2012/3/25 03:24:44
  • 回答日時:2012/3/25 03:17:24