2012年5月22日火曜日


 (11) 平敦盛

摂津の国(神戸)の西端、須磨の地に伝わる物語と哀歌。この須磨寺には平敦盛と熊谷直実の、「戦いの像」がある。

だが、戦いは瞬時に終わった。
沖にたゆとう平家の軍船、一の谷合戦で破れた平家の武者たちが、沖へ向かって逃げ惑う。やや遅れて、連銭葦毛の馬が、波打ち際に入ろうとする。追撃してき た熊谷直実は、目前の、手中にし得る手柄に心躍らせた。「引き返せ」と勝負を挑んだ。滋藤の弓、黄金作りの太刀・・・・・・・・・、高貴な身分を表す武者 は引き返し、直実に応じた。
直実は、すぐにも組み伏せた対手の若さと美貌に心動かされた。十六、七歳と思われる。直実の息子・小次郎とほぼ同じ年頃。直実は心痛めて、勝負を放棄しよ うとする。しかし、後方から進撃してきた源氏の武者たちの姿を見て、「よも逃れさせ給はじ」と自らのうちに嘆いた。嘆きのうちに若武者の首を切り落とし た。

その前、名を尋ねた直実に、若武者は言った。「名乗る必要はあるまい。この首を持ち行けば、知らぬ人はいないはず。汝の手柄にせよ」。

熊谷次郎直実は、やがて出家した。

一の谷(いちのたに)の 軍破れ(いくさやぶれ)
討たれし(うたれし)平家の 公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨(すま)の嵐に
聞えしはこれか 青葉の笛

この「青葉の笛」は、かつて小学校唱歌として親しまれていた。だが、学校で習う前に、子供たちは、口伝えで母親からこの歌を学んでいた。

敦盛の首を包んだ直垂は、もちろん、敦盛の鎧に付いていたもの。直実が直垂を取って首を包もうとしたところ、錦の袋に入った笛があったという。・・・・・・・・・そういえば、戦いの一日が終わり、夜の闇に切々と流れてきた笛の音は、平家の陣所からの音色だった。
「何という優雅さ」と、直実は身分の高い敦盛への敬意をいっそう募らせた。
一武将に過ぎない直実は、遥か上位の「平家の公達」の首を、当然、高貴な包みで覆わねばならない。敬う心と悲哀の涙が、直実の行為を導いた。当時、また、 いつの世も、戦いの場での「恩賞のもと」、敵方の首はそのまま持ち歩いた。激闘ともなれば、当然のように憎しみもわく。しかし、熊谷直実の胸のうちは違っ ていた。

この話は、やがて直実自身の口を通して、源義経に伝えられた。この高貴な若武者の最期に、涙せぬ者はいない、と義経は語った。


近世への夜明け、戦国の世を統一した織田信長は、出陣に際して、必ず謡曲「敦盛」を舞ったという。「人間五十年・・・・・・・・・」で始まる謡に、信長は自らの死生観を重ねたと伝えられている。


  • 編集日時:2012/5/13 01:36:03
  • 回答日時:2012/5/13 01:00:10

 (10) 歴史書の推奨

1)マルグリット・ユルスナール(Marguerite Yourcenar)、「ハドリアヌス帝の回想」(Memoires d'Hadrien)
2)辻邦生、「春の戴冠」
3)クリストファー・ドーソン(Christopher Dawson)、「ヨーロッパの形成」(The Making of Europe)


歴史好きでない人に、お薦めですか?
だから、僕は、まず、小説作品をお薦めしました。

1)M・ユルスナールは、20世紀後半の新世代「ヌーヴォー・ロマン」作家の一人です。実在のローマ皇帝を描いたこの作品で、フェミナ賞を受賞。たちまち諸外国に翻訳された。イギリス、アメリカでベスト・セラー。

2)辻邦生の小説の中には、史実を背景とした作品が多い。その上で、この作家に独特の、「語りべ」を通して叙述されていく歴史の転換期が読者の心の深層 に、いくつかの主題を投げかけてくる。例えば織田信長を描いた「安土往還記」もそうであるが、ここでは、ルネッサンス期のフィレンツェが絵画のように描か れていく。実在の美術家たちを中心とした物語と言えよう。

3)C・ドーソンは、有名な歴史学者です。
既に、上記の2作品、ヨーロッパの歴史叙述に、あなたは馴染んだので、ここで歴史的論稿をお薦めします。著者の深い洞察力は、きっとあなたを満足させてくれるでしょう。


上記(1)、(3)は翻訳が出版されています。


  • 編集日時:2012/5/4 01:56:08
  • 回答日時:2012/5/4 01:51:19

 (9) 8人の戦国武将についての回答

質問者さんが掲げられた人物8人について、僕の考えを記述します。
記述の順番は、僕の任意にさせてください。

●波多野秀治、別所長治
この二人については、他の6人と比べる程の特別な事跡はありません。

●浅井長政
父・久政に従って、義兄・織田信長を裏切り、浅井家滅亡の道を歩んだ。
似たような苦境を高山右近の事跡に見出す事ができる。しかし、喩えてみれば、課長クラスの右近は、父・飛騨守の命令に従わず、直接の上司、即ち部長・荒木 村重の側に立たなかった。社長・織田信長に忠誠を誓い、高山家の安泰を獲得した。だが、結論への道程は長く、右近の苦慮は続いた。右近を助けたのは、彼を よく理解し、その彼を惜しんだ信長と、この信長のメッセージを齎してくれたポルトガル司祭に他ならなかった。
長政の性格は、あまりにも凡庸だった。父子間の対話においても、時流を省みない久政に押し切られ、そして理念を欠く朝倉義景(久政の上司)の側に当たり前のようについていった。
*人物評――凡庸

●荒木村重
最後まで「駆け引き」で事を運ぼうとした。裏切って毛利方につき、反抗の末、数百名に上る家族・縁者を城に残したまま、身一つで逃走した。当然のように、 残された縁者たちは織田軍の捕虜となった。人質である。当時、こうした背信行為は、人質の犠牲によって成り立っていた。そこで村重は「駆け引き」の愚行に 出た。「人質殺害が正当であるとしても、これだけ多くの人質をあやめる事は、信長の世評を下げることになる。そんなこと、信長にできるはずがない」。
誰の眼にも読める村重の卑劣さに、信長は怒った。信長を残虐と解釈する今日の小説家たちを、その時代の人々は嘲笑うだろう。
*人物評――卑怯

●足利義昭
これは凡庸以下の愚劣の塊りである。形すら無い、名前ばかりの将軍の威光が、日本全土に行き渡ると錯覚している。たとえば武田信玄たちが、「将軍の命令」で打倒信長で結集したとしても、それらは全て利害打算の成り行きなのだ。
それすら読めず、頼りにした信玄の死など読めるはずも無い。彼の滅亡は自明の理と言えた。
*人物評――愚劣

●松永久秀
異才の反骨者である。ただ、足利将軍家も、将軍家をないがしろにする三好家も、ともに「お粗末な人材の集合」に過ぎなかった。さんざん利用し、ポイするの が余りにも易しすぎた。しかし、「そのうち、騙し討ちにしてやろう」と目論んだ相手、織田信長は、簡単にはいかなかった。それを知るにつれ、久秀は反抗の 時期をできるだけ延ばしてきた。だが、その時期が来ないまま、結局は信玄中心の「保守連合」に、盲目的に、飛び乗るほか無くなっていた。自滅への道であ る。
このへんの経緯は、井上靖の短編「平蜘蛛の釜」に上手に描かれている。
*人物評――年月をかけた自滅

●明智光秀
小才、教養の徒、と僕はいつも評している。この人物における教養とは、伝統の中でも特に内実に乏しい部分を有難がる姿をいう。当時、およそ宗教とか信心の かけらも無い「堕落悪僧」の、「乱れの場」である叡山などへの崇拝から逃れられない自身のありかた、を頑迷につらぬいた。しかも、その小才を以って一国の 統治を可能と自惚れる「自己への狂信」。
光秀の愚行が、本来、日本統治力の無い徳川家康にその場を与えてしまった。「鎖国三百年に及ぶ退歩の歴史」。その後に続く、「後進国としての富国強兵策」。やがて「侵略国家としての悲劇的結末」。全ては「本能寺変」が齎した。
*人物評――狂気の愚行

●豊臣秀吉
一兵卒から司令官への出世。たしかに例を見ない才能の持ち主である。しかし、その才は、優れた指揮者のもとで発揮される種類のものである。指揮者がなくな れば、秀吉の本質がそのまま表に出る。凡人に相応しい「権力欲」。凡人が陥りやすい「残虐性」。彼の「戦争外・残虐性」は、多くの記録に残されている。こ の人物に「統治の理念」など学べる筈も無かった。豊臣家の悲劇的な末路は、やはり「本能寺の変」が齎したと言えよう。
*人物評――権力欲と残虐


  • 編集日時:2012/3/29 17:02:16
  • 回答日時:2012/3/27 19:16:32

 (8) カトリック、プロテスタントの人口比

ごく最近の正確な資料は存在しない。僕が参考にした資料は『国際情報事典PASPO』の2002年であるが、同時に僕がボストン滞在中に、カトリック教会関係の施設、その他から得た資料をもとにしている。
その結論は、次のような回答になります。

比較的正確な記述は、カトリックとプロテスタントの比率に限られる。したがって、キリスト教以外の人口比は、下に記したパーセンテージ以外の比率から割り出してもらうことになります。

(1)ヨーロッパ―――カトリック50.0%、プロテスタント30.7%
(2)北米大陸―――カトリック52.7%、プロテスタント41.6%
(3)中南米地域――カトリック93.7%、プロテスタント5.1%
(4)アジア地域―――カトリック4.1%、プロテスタント3.2%
(5)オセアニア―――カトリック26.6%、プロテスタント68.6%

(6)アメリカ合衆国――カトリック24%、プロテスタント22%
(7)フィリピン――――カトリック93%
(8)日本―――――?


[解説]

(1)ヨーロッパでは、共産主義政権の消滅によって、圧倒的にカトリックとギリシャ正教の人口が増加した。しかし、例えばポーランドでは、共産圏時代から カトリックの人口は90%を超えていた。クレムリンの弾圧も、人々の信仰にまでは力及ばなかったのかもしれない。フランスとドイツについて言えば、カル ヴァン、ルーテルを輩出した国ではあるが、依然としてカトリックの人口がプロテスタントを上回っていた。特にフランスにおけるカトリックは、その人口比率 ばかりでなく、請願者(教会、修道会への入会志願者)の数において常に他国を圧倒していた。

(2)北米大陸におけるカトリック人口は、20世紀に入って急激に増加した。この大陸はアメリカ合衆国とカナダの二国に限定されるが、メイフラワー号によ る、ピューリタンたちの移入は、まだ建国以前の時期に過ぎなかった。例えばUSAへの移住者を見た場合、初期のピューリタンたちよりも、スペイン人(フロ リダなど)、フランス人(ルイジアナなど)の方が多いと認められる。また、カナダにおけるフランス人が占める人口比はもともと高かった。

(3)中南米地域のブラジルのみがポルトガルの植民地で、他は全てスペインの植民地であった。いずれにしても、建国者たちがラテン系に統一されていたことで、当然のようにカトリックの人口比は高い。

(4)アジアにおけるキリスト教徒の比率自体が非常に少ない。イスラム教徒に次いで、ヒンズー教徒、仏教徒と続く。
しかし、フィリピン一国については、完全なカトリック国であり、また韓国における最近の動静は、東ヨーロッパと同様、カトリックの増加を告げている。

(5)オセアニアのプロテスタント人口には、英国国教会が高い比率を占めている。


(6)アメリカ合衆国が独立した時期は、僅か13州に過ぎなかった。したがって「ピューリタンたちによる建国」という標語は真実から外れている。(2)の北米大陸で記述したが、USA自体にもスペインやフランスからの移住者は増えていた。
僕がいつも不思議に思うのは、「新しい国USA」と、その新進気鋭ぶりが語られるが、ここにはひとつの矛盾がある。イギリス本国での迫害から逃れてきたア ングロサクソン人の奇妙な保守性である。例えば美術にしても、音楽にしても、USAが独自の創出を始めたのは、第二次大戦後からと言っても過言ではない。 それほどに、アメリカは保守的な国といえた。迫害者イギリスを尊重する「矛盾に満ちたWASP伝説」が長い間維持されていた。ケネディ大統領以後、この WASP伝説は打破されたのである。

したがって、特に20世紀に入ってからは、ボストン、ニューヨークなどの北東地域(メイフラワーゆかりの地域)における、カトリック教徒の増加は著しかっ た。ボストンはアイルランド系人口が圧倒的に多く、ニューヨークも1950年代の有名なファルトン・シーン司教の努力によって、カトリック人口は急増し た。ベトナム戦争の頃から、プロテスタントの減少が目立ち始めている。

(7)フィリピンはスペインに次いでアメリカの植民地となったが、宗教はスペインのカトリックを維持していた……、と考えられがちだが、その時期既に、ア メリカは必ずしもプロテスタント国家ではなくなっていたのである。アジア全体とすれば、キリスト教の人口は非常に少ないが、フィリピンだけで考えれば 93%がカトリックである。

(8)日本という国は、昔から信仰心の乏しい国である。その良し悪しは別として、宗教は常に政治と結びついていた。現代から遡れば、人々は「政治と結託し た高僧たち」のマインド・コントロールのもとに、かなり熱烈な信仰を持っていた時期もあった。しかし、今日、伝統的な仏教への、真の信仰者の比率を探索す ることは殆んど困難である。

  • 編集日時:2012/3/25 03:24:44
  • 回答日時:2012/3/25 03:17:24

 (7) カトリック人口分布の経過

5つの質問にお答えします。
①と②について、質問者からの要請「一行くらいで………」は無理なので、少し行数が増えます。

①ローマ帝国東西分裂後、紀元5世紀の終盤、フランク王・クロヴィスがローマ軍を破り、フランク王国建設。その後、東ローマ皇帝ユスティアヌス1世が東西 ローマ帝国統一を目指すが、途中で挫折。フランク王国の廷臣・大ピピンの息子、小ピピンがカロリング朝を創立。その息子、カール一世が全フランクを統一 し、歴史上有名な「カロリング・ルネサンス」を開花させた。

紀元800年、ローマ教皇レオ3世が、カール1世に帝冠を授け、カール大帝が誕生した。

②かつて、北米にはプロテスタントが多かったかもしれない。とは言え、北米大陸には、フランス系住民の多いカナダがある。その上で、20世紀の今日、北米 大陸の一国であるUSAにおいてさえ、カトリック人口のほうが上回っている。特に、メイフラワーゆかりの地・北東部USA、例えばボストン、ニューヨーク におけるカトリック人口の増加は目覚しい。こうした傾向は21世紀に入って更に顕著である。ちなみに「国際情報事典PASPO」(学研)の2001年版情 報でさえ、………。

北アメリカ・・・・・・・・・カトリック52・7%、プロテスタント41.6%
USA・・・・・・・・・・・・カトリック24%、プロテスタント22%

③ポルトガルの植民地(ブラジル)、スペインの植民地(ブラジル以外の全ての国)であったため。ポルトガル、スペインはカトリック国である。

④どちらも共にイギリスの植民地であった。イギリスは「イギリス国教会」の国である。

⑤イギリスとオランダ、ともに国の風潮としては、信仰的な内面性が欠けており、富国強兵を国是とする「貿易などの実益」優先が漲っていた。布教を中心とし たポルトガル、スペインが上記の両国に圧されていくのは、当然の成り行きだった。特に日本の場合、やはり信仰心の薄い、権力欲の権化ともいうべき徳川政府 であれば、当時のイギリス、オランダと金銭的利害による協調こそが重視されて行くのも当然といえる。

しかし、目先の実利優先社会が齎す退歩のツケは、やがて、明治、大正、昭和に周って来た。物事とは全てそういうものであり、歴史がそれを物語っている。


  • 編集日時:2012/3/17 19:30:29
  • 回答日時:2012/3/17 19:18:02

 (6) キリスト教を理解したい人への推薦書

僕の書棚から、薦めたい本を、数冊選んで記します。その中から、あなたが興味を持てる本を読んで下さい。

A)小説家が書いた本。
――――①ジュリアン・グリーン 「アシジの聖フランチェスコ」 (人文書院)
――――②フランソワ・モーリアック 「イエスの生涯」 (新潮文庫)
――――③ジョルジュ・ベルナノス 「田舎司祭の日記」 (春秋社)

①は、アメリカ人であるが、殆んど全ての小説をフランス語で書き、フランス文学史上に大きな足跡を残しました。ここに提示した「聖フランチェスコ伝」は一種のノン・フィクション・ノベルであり、 発売と同時に非常な売行きを示し、ベスト・セラーとなったものです。いかにもカトリックのお国柄・フランスを感じさせますが、主人公は、カトリック聖人た ちの中で最も愛されている「愛の使徒」と言えるでしょう。

②は、欧米で著名なノーベル賞作家。彼の国葬に、世界中の著名人が参列しました。アカデミー・フランセーズに残した業績は、ひときわ大きい。「イエスの生 涯」は、いかにも小説家らしい、独特の語り口で語られています。彼の文体は、小説作品において独特の試みがあり(例えば、<動詞の直接法現在>の多用が齎 す、ある緊迫感を巧みに紡いでいった)、この本でも、それが現れ、翻訳者の杉捷夫は、常にモーリアック文体を、見事に和訳しています。

③は小説作品そのものです。若い繊細な田舎司祭の日常を、見事に描いています。この作品に触発された映画監督・ロベール・ブレッソンは、「映画=エクリ チュール」という前衛作家らしい、彼の創作技法を、この映画でも表現しました。ちなみに、「ヌーヴェルバーグ」の作家たち、特にアラン・レネや、イング マール・ベルイマン、ミケランジェロ・アントニオーニは、ブレッソンの信奉者であり、その「反スペクタクル主義」の影響を受けました。
この小説作品と同じように、映画作品も、ともに欧米で大きな反響を招びました。


B)エッセイ集「現代思潮とカトリシズム」 (上智大学編、創文社)
………僕も、カトリック以外のことでは、宗教について門外漢です。
しかし、先に挙げたA)は勿論、B)の中でも、グレアム・グリーン、フランソワ・モーリアック、イーヴリン・ウォーのような小説家たちのエッセイは、読み やすく書かれています。しかし、例えばガブリエル・マルセルやF・C・コプルストンのような哲学者の文章も、さほど難解ではありません。他にクリスト ファー・ドーソンのような歴史学者など、多数が書いていますが、いずれも短文を集めた書籍です。

B)は、A)のような「小説的な緊迫感(あるいは面白さ)」は無いが、テーマによっては、興味を持たれるかたも多いと思います。


以上の書籍は、全て図書館にはあります。また、「アマゾン」で古書として販売されています。
できれば、僕の推薦書籍を、全部読んでいただきたいと思います。


  • 編集日時:2012/3/8 18:39:06
  • 回答日時:2012/3/8 18:04:30

 (5) 史上最優秀の 「治世者10人」

単に「政治能力や統治能力」だけで選ぼうとすれば、数十人の人物が僕の前でひしめく事になる。例えば、蒲生氏郷が豊臣秀吉より下だとは断定できない。徳川家康より上かもしれない。しかし断定は不可能だ。

そこで、僕は「己の信念を貫いた人物」、そして「信念とは人間社会に、純粋に真実を求める志向性」として、それを行動で示した人物を歴史の中から呼び寄せ た。1位から5位までは、比較的決めるのが速かった。だが、6位から10位にかけて、20人以上の人物から選定しなければならなかった。困難を極めたが、 とにかくベスト10は下記のように決まった。


1位)ロバート・ケネディ(アメリカ)。
2位)織田信長(日本)。
3位)エイブラハム・リンカーン(アメリカ)。
4位)コンスタンティヌス大帝(ローマ帝国)。
5位)ジョン・ケネディ(アメリカ)。
6位)カール大帝(フランク王国)。
7位)北畠顕家(日本)。
8位)マーガレット・サッチャー(イギリス)。
9位)諸葛孔明(中国)。
10位)ウィンストン・チャーチル(イギリス)。


10位)ウィンストン・チャーチル(イギリス)。
すべての人が熟知。

9位)諸葛孔明(中国)。
漢室の後裔・劉備が示した「三顧の礼」への恩義に徹した人生。「三国志」とは言っても、西蜀は北魏、南呉のような強大な軍備も無い。人材もまた乏しい。主君・劉備の没後、幼帝を守って「宰相」としての活躍は、一国の統治者以上のものがあった。
しかし、孔明の「蒲柳」の体質は、志の達成を見ぬまま病没。宿命的な悲劇の人生に従った。

8位)マーガレット・サッチャー(イギリス)。
「鉄の女」と喩えられるが、「新自由主義」の施策を貫き通した信念は、チャーチルの場合と違って、常に大きな反撥を買っていた。だが、彼女の施策は結局は 正しかった。イギリス議会史で、例を見ない長期政権を創出したのは、まさに、イギリス議会史に初めて登場した「女性宰相」に他ならなかった。

7位)北畠顕家(日本)。
宿命に殉ずる武将は数多い。だが、「南朝」の正統性を旗標にしつつ、足利高氏との戦いは最終的には困難を極めていった。彼は十五歳そこそこで、公家司令官 として、東北の地で任務を全うしていた。統治の才もさることながら、父から継いだ人望も高かった。京都での初戦に大勝したが、足利軍の復活に再び東北の地 を後にしなければならなかった。そして20歳での戦死である。

6位)カール大帝(フランク王国)。
ローマ人に代わって、蛮族の子孫が国を治める。だが、彼の志向には文明国家への果てなき想念があった。「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる、学問と文化の開花は彼によって成し遂げられた。それは、得意の武技を超えた彼の政治観から生れていた。

5位)ジョン・ケネディ(アメリカ)。
キューバ危機から世界を救った。しかし、そうした実績よりも、大統領府に存在するそのこと自体が、アメリカが担うべき役割、未来への光明を掲げ続けることに他ならなかった。

4位)コンスタンティヌス大帝(ローマ帝国)。
勇猛な皇帝である。その声望が、彼の支えであることに違いはなかった。だが、彼が見た夢、彼の心が知得した現実こそが、まさに彼が実行しなければならない ことだった。ローマ帝国史に受け継がれ、血塗られてきた「キリスト教徒迫害」の逆転(ミラノ勅令)は、場合によっては命取りになりかねない。しかし、彼は 信念の通りに行動した。そして、コンスタンティノープルの都を中心に、帝国は更に繁栄した。

3位)エイブラハム・リンカーン(アメリカ)。
すべての人が熟知。

2位)織田信長(日本)。
群雄割拠と一口に言うが、応仁の乱以来の実態は、日本の歴史の中でかつて存在したことは一度もない。源平合戦とか、南北朝対立とかの単純な図式はここには ない。この日本統一は決して常人の出来ることではない。その上、彼は誰にも勝る直観力を持ち、それが類い稀な軍略以上に、政治的見識さえも形づくってい た。

1位)ロバート・ケネディ(アメリカ)。
アンバサダー・ホテルの凶弾。勝利演説の始まりと共にアメリカの希望(ゆめ)は消え去った。だが彼の事績は、大統領就任を経なくとも、統治者以上の彩りに輝いている。
「公民権への使命」(人種差別との戦い)、「恐怖と不安から人々を守る使命」(マフィアとの対決)、そして「政治に巣食う不明な権力との対決」が、若き司 法長官として登場して以来の彼の映像に他ならなかった。「ジョンは逝ったが、ロバートがいる」。その時期のアメリカ全土にうねりのように巻き起こった「希 望の声」とも言えた。ジョンが灯した光明「新しいアメリカ」は、一時の停滞の後、ロバートが再び灯してくれる。………だが、彼は政敵の凶弾に倒れた。それ から約40年、アメリカ合衆国は今もって、あの光明を見出せないでいる。

  • 編集日時:2012/2/27 11:11:51
  • 回答日時:2012/2/26 02:52:57

 (4) 平家物語 「俊寛僧都」

鬼界ヶ島での棲息。

シテ――俊寛僧都。
ワキ――赦免使。
ツレ――平判官康頼。
ツレ――丹波少将成経

高倉帝世継ぎの安産祈願による大赦。赦免使が差し出す文書をツレが読み上げる。赦免状にはツレ二人の名しか無い。
シテの驚き、そして問答のあと………、

シテ「さては筆者の誤りか」
ワキ「いや、都にて承り候も、………俊寛一人をば、この島に残し申せとの御事にて候」

恐怖と孤独の泣訴、離れゆく舟にしがみつき、叩き追われる。………クライマックスへ向かう前に、「現在能」が、その特性を最適な表現で示す悲嘆の美を見出す。

20世紀のあらゆる前衛芸術が試みる「物理的時間の破壊」、あるいは、それからの脱却を、世阿弥以後、本流となった「夢幻能」――日常性否定――、更なる再度否定が、この物理的時間に従う「現在能」の古典主義的整合性を強調する。


源三位頼政も亦、能舞台で演じられる一人の主人公である。
しかし、俊寛についての描写は実に多様を極めている。例えば、ツレ二人の神信心にも加わらぬ拗ね者としての俊寛。傲岸と言われたこの僧都が、一転して人間の弱さを露呈する。
作者不明の作品だが、この作品では「特殊面」を用いている。通常、「現在能」ではツレは「直面(ひた面)」が用いられる。
「直面」とは面を付けない顔面のことである。能の世界では、これもまた面の一つとして呼び慣らしている。したがって、この「直面」での演技は、表情の持続、その時間の長さによる、困難が付きまとう。
だが、この「俊寛」では、「俊寛」と名づけられた面が用いられている。これを「特殊面」という。

数多い「能」作品の中でも、「俊寛」の名場面は夙に有名。

僕の観点では、俊寛が大河ドラマに登場する事は、ドラマの秀逸性を保持するための必要条件となる。決して十分条件ではない。俊寛が要塞にも等しい己が別荘 を「平氏転覆の陰謀の場」とした史実もあるが、これでさえ省く意味は見出せない。その上、俊寛が見せる内奥の激しい変貌は、観者の胸を打つ情景を描き出し ている。「能」の終わりは、孤島に残された孤影の後姿で締めくくられる。

「大河ドラマ」は、しばしばナレーションを用い、現代の姿を映像として提示していた。
この「能」の映像を、こうした形で提示することは、ドラマの格調を高めるに違いない。しかし、「大河ドラマ」は「低俗な興味」のために、しばしば、重要場面、あるいは格調の映像を放棄してきている。今年の「ドラマ」に果して期待できるだろうか?

  • 編集日時:2012/2/20 15:23:27
  • 回答日時:2012/2/19 19:17:52

 (3) 「本能寺の変」 周辺の人物評

1)明智光秀
小才・教養の徒。「教養の徒」とは、小さな内面風景が、彼の存在理由(Raison d’aitre)となっている類の人物のこと。
例えば、延暦寺炎上作戦を決行した信長に対する光秀の反論。その根拠は「伝統の尊重」にあった。しかし、光秀が言う「伝統の尊重」とは、「叡山への盲目的 な信仰」に過ぎない。そして、仏僧たちの堕落は明白であった。戒律を破り、その集団は、宗教家からはほど遠い生活、そして政治結社であり、無法の軍団に他 ならなかった。

「叡山を滅ぼすものは、叡山自身である」と信長は言った。武田信玄を中核とした、保守陣営との戦いの最中、「叡山焼き討ち」は、日本統一という理念の達成で、避けられない作戦だった。この「伝統の場」は、無法者集団をかくまう館と堕していた。

こうした小才は現代でもしばしば目にする。彼らは、自分がなす事の、負の大きさを知る事ができない。統一理念のもと、戦国時代の終焉が告げられる直前、光秀の軽挙妄動が時代の進歩を阻害する事に彼自身は気づかない。

「本能寺の変」。彼の卑劣な行為は、彼の「茶の湯仲間」たち(高山右近、細川藤孝)を、「主君の仇討ち」の主題の下に結集させた。この事実こそが、「小才・教養の徒」の理解を困難にさせることである。

2)織田信長
例えばイギリスのマーガレット・サッチャーを知る人は、一様に、「あの人ほど、気持ちの優しい人はいない」と口にする。この鉄の宰相と言われた政治家への 認識は、信長についても言えることである。また、厳しい軍律は、当然ながら、民衆への善政に基いている。民への暴虐を厳しく取り締まった信長の事跡につい ては、ポルトガル宣教師、修道士たちによる多くの書簡で示されている。

いわば、小国が拮抗しているに等しい戦国の世で、「楽市・楽座」などの関税撤廃政策が、信長配下の地で、どれほど経済的繁栄をもたらしたか、多くの人が 知っている。そして、こうしたオリジナリティは、優れた政治家としての特性に基いている。それは、治世においてばかりでなく、軍略においても最大限生かさ れた。

日本歴史上、織田信長以上の政治家は存在しない。「本能寺変」がもたらした災厄とは、日本という国から、まともな「進歩の軌跡」を奪い取ったことである。徳川三百年が日本に強いた「退歩の歴史」を振り返れば、それは明白である。。

3)織田信忠
弱冠25歳で、京都・二条城で戦死。日本史には、こうした例は数多い。南北朝時代の公家指揮官・北畠顕家は26歳で戦死したが、彼の悲劇は、その宿命から醸成された。反動政治家・後醍醐天皇の挺身という立場である。

それに比べれば、織田信忠は、幸せだったといえるだろう。
彼の戦歴は、見事な成功に貫かれている。怪物と言われた松永久秀の攻略に、わずかな落ち度さえ見出せない。「長篠戦」敗退後、甲斐に立てこもる武田勝頼へ の攻略も、これまた一分の隙もない、見事な戦績をうちたてた。当然のように、いずれの作戦においても、たとえば、瀧川一益、羽柴秀吉などの、有力司令官が 従っていたとはいえ、逆に彼らを指揮した見事さが強い印象となって語られている。

「毛利攻略」に専従する司令官・羽柴秀吉への援軍となるべき、いわば、「地上最大の作戦」、だが「勝敗の帰趨はあまりにも明白な合戦」に向けて、織田信長・信忠は、それぞれ京都に宿泊した。本能寺と二条城。
本能寺に比べて、まだしも、包囲の強さが欠けていた二条城ではあるが、全軍を率いて逆戻りしてきた明智軍団の数を知り、織田信忠は「恥ずべき討ち死」の可 能性より、二条城での武将らしい最後を選んだようだ。そして、最後の戦いを前にして、明智軍に伝令を送り、「殿中の女官や非戦闘員の撤退」を、ことなく運 ばせるようはかったと伝えられている。

長子・信忠が失われれば、残された次男、三男(信雄、信孝)の器量は、日本統一の事業を継承するに値しなかった。

4)羽柴秀吉
たしかに、才能豊かな司令官ではあったが、この人物に「政治的理念」は、殆んどみられない。権力者となってからの、彼の迷妄な治世は、早晩、徳川家康に権力を奪われる宿命を担っていたと言っても過言ではない。

また、秀吉の暴虐性は、公私にわたって記録されている。だが、世の「物書きたち」は、出世物語に心惹かれ、歴史に刻印された事実を忘れたがっている。

5)徳川家康
「鎖国」がこの人物の全てを語っている。典型的な封建君主。彼の無能な側面を、「忠義者」たちがカバーしていた。
例えば、「士・農・工・商」。この徳川時代ほど、農民が苦しんだ時代は他に無い。そして、この徳川時代ほど、商人が栄華を欲しいままにした時代は他に無い。しかし、「士・農・工・商」という階級制度は不滅であった。
すでに記したが、明治以降の軍拡政策、侵略政策が、第二次大戦に走らせ、かつてない悲劇を生み出した。
すべては徳川三百年の「退歩の歴史」から始まったといえるだろう。

  • 編集日時:2011/11/30 00:36:15
  • 回答日時:2011/11/29 19:50:41

(2) Anno Domini の説明

B.C. Before Christ キリスト以前 =キリスト生誕以前 (英語)

A.D. Anno Domini 主の年 (即ち、キリストの年)=神の年 (ラテン語)


簡単に説明します。ラテン系諸国の言語は、このラテン語の支流として、発達、変化
を遂げています。たとえば-----、

「年」は、フランス語でannée、スペイン語で año、 となるように、近親語形を形成
しています。また、ラテン語系では、形容詞が名詞の後ろに位置することが多いです。
たとえば……、
Mont Blanc(モンブラン=白い山の意味)、フランス語、
Casa Blanca(カサブランカ=白い家の意味)、スペイン語

ちょうど、ゲルマン語系(ドイツ語、スウェーデン語、英語の一部)では、形容詞が
名詞の前に位置することが多いのに対して、です。

Dominiは、Dominus(英語でMaster、あるいは、Lord)の所有格(形容詞)
です。
Anno(年) Domini(主の) と、ラテン語系の配置になっています。

  • 編集日時:2011/11/1 17:25:48
  • 回答日時:2011/11/1 09:45:23

 (1) 歴史文学の推奨

とりあえず……。

(1) 辻邦生 「安土往還記」
(2) 今東光 「お吟さま」
(3) 井上靖 「信松尼記」

(1)について。
極めて古典的な記述を重視する辻邦生さんは、「語りべ」を設定
します。この「語りべ・物語の話者」だけが架空の人物です。

織田信長の生涯を、一人のイエズス会修道士(架空人物)の
視点を通して描いています。当然、著者自身の視点と言えるでしょう。
戦国時代を扱った多くの小説、たとえば、山岡荘八、司馬遼太郎たち
の作品は、彼らの歴史解釈において、真実性が失われます。つまり、
歴史解釈と言うよりは、彼らの「小説造り」の興味、といったものが、
作品を覆っているからです。
辻さんの作品は、既存の「織田信長人物像」にはない真実が、
よく顕れています。

(2)について。
この作者は、平泉の、ある仏寺の住職だったそうです。この作品で
直木賞を授賞されたそうです。直木賞授賞作家としては、それなり
の年配だったと思われます。

やはり、戦国時代を背景にしていますが、戦国武将の一人を脇役
とし、彼を慕う女性を主人公(ヒロイン)としています。

利休十哲の一人、織田信長からもこよなく信頼された高山右
近という、また、キリシタンとしても名高い人物像が、よく描かれ
ています。

安土桃山時代の後半を時代背景としています。すべて歴史上
の人物ですが、この小説を彩る「愛の物語」が歴史的事実であ
るかどうかは、わかりません。しかし、時代感覚と共に、特異な生
を通して、読者の心に染み入る真実を、確かめることが出来るで
しょう。

(3)について。
この作者は、多くの長編を執筆されていますが、ここに挙げた
一人の女性の物語は、20ページそこそこの短編です。

甲斐の武田信玄が、織田信長と盟約を結んだ短い時期
がありました。武田家の「松姫」と、織田家の長男「奇妙丸・
信忠」の間に縁組が整いました。だが、戦国時代にはよくある
例に漏れず、二人の年令は、7才と11才でした。

そして、二人は、一度も顔を合わせることがなく、戦国史
という大きな奔流に呑み込まれていきます。とはいえ、歴史の
皮肉とも言うべき事実、武田家滅亡への攻防を担った、織田
家の指揮官は、松姫の婚約者・織田信忠だった。

出家して、信松尼と呼ばれた、この女性の、硬質で主知的
な文体が、日記という表情を以って、語られていきます。と同時
に、「井上靖の世界」とも言うべき、落日のロマンも、また、旋律
として奏でられています。

  • 回答日時:2011/8/4 00:55:46