2012年5月22日火曜日


 (3) 「本能寺の変」 周辺の人物評

1)明智光秀
小才・教養の徒。「教養の徒」とは、小さな内面風景が、彼の存在理由(Raison d’aitre)となっている類の人物のこと。
例えば、延暦寺炎上作戦を決行した信長に対する光秀の反論。その根拠は「伝統の尊重」にあった。しかし、光秀が言う「伝統の尊重」とは、「叡山への盲目的 な信仰」に過ぎない。そして、仏僧たちの堕落は明白であった。戒律を破り、その集団は、宗教家からはほど遠い生活、そして政治結社であり、無法の軍団に他 ならなかった。

「叡山を滅ぼすものは、叡山自身である」と信長は言った。武田信玄を中核とした、保守陣営との戦いの最中、「叡山焼き討ち」は、日本統一という理念の達成で、避けられない作戦だった。この「伝統の場」は、無法者集団をかくまう館と堕していた。

こうした小才は現代でもしばしば目にする。彼らは、自分がなす事の、負の大きさを知る事ができない。統一理念のもと、戦国時代の終焉が告げられる直前、光秀の軽挙妄動が時代の進歩を阻害する事に彼自身は気づかない。

「本能寺の変」。彼の卑劣な行為は、彼の「茶の湯仲間」たち(高山右近、細川藤孝)を、「主君の仇討ち」の主題の下に結集させた。この事実こそが、「小才・教養の徒」の理解を困難にさせることである。

2)織田信長
例えばイギリスのマーガレット・サッチャーを知る人は、一様に、「あの人ほど、気持ちの優しい人はいない」と口にする。この鉄の宰相と言われた政治家への 認識は、信長についても言えることである。また、厳しい軍律は、当然ながら、民衆への善政に基いている。民への暴虐を厳しく取り締まった信長の事跡につい ては、ポルトガル宣教師、修道士たちによる多くの書簡で示されている。

いわば、小国が拮抗しているに等しい戦国の世で、「楽市・楽座」などの関税撤廃政策が、信長配下の地で、どれほど経済的繁栄をもたらしたか、多くの人が 知っている。そして、こうしたオリジナリティは、優れた政治家としての特性に基いている。それは、治世においてばかりでなく、軍略においても最大限生かさ れた。

日本歴史上、織田信長以上の政治家は存在しない。「本能寺変」がもたらした災厄とは、日本という国から、まともな「進歩の軌跡」を奪い取ったことである。徳川三百年が日本に強いた「退歩の歴史」を振り返れば、それは明白である。。

3)織田信忠
弱冠25歳で、京都・二条城で戦死。日本史には、こうした例は数多い。南北朝時代の公家指揮官・北畠顕家は26歳で戦死したが、彼の悲劇は、その宿命から醸成された。反動政治家・後醍醐天皇の挺身という立場である。

それに比べれば、織田信忠は、幸せだったといえるだろう。
彼の戦歴は、見事な成功に貫かれている。怪物と言われた松永久秀の攻略に、わずかな落ち度さえ見出せない。「長篠戦」敗退後、甲斐に立てこもる武田勝頼へ の攻略も、これまた一分の隙もない、見事な戦績をうちたてた。当然のように、いずれの作戦においても、たとえば、瀧川一益、羽柴秀吉などの、有力司令官が 従っていたとはいえ、逆に彼らを指揮した見事さが強い印象となって語られている。

「毛利攻略」に専従する司令官・羽柴秀吉への援軍となるべき、いわば、「地上最大の作戦」、だが「勝敗の帰趨はあまりにも明白な合戦」に向けて、織田信長・信忠は、それぞれ京都に宿泊した。本能寺と二条城。
本能寺に比べて、まだしも、包囲の強さが欠けていた二条城ではあるが、全軍を率いて逆戻りしてきた明智軍団の数を知り、織田信忠は「恥ずべき討ち死」の可 能性より、二条城での武将らしい最後を選んだようだ。そして、最後の戦いを前にして、明智軍に伝令を送り、「殿中の女官や非戦闘員の撤退」を、ことなく運 ばせるようはかったと伝えられている。

長子・信忠が失われれば、残された次男、三男(信雄、信孝)の器量は、日本統一の事業を継承するに値しなかった。

4)羽柴秀吉
たしかに、才能豊かな司令官ではあったが、この人物に「政治的理念」は、殆んどみられない。権力者となってからの、彼の迷妄な治世は、早晩、徳川家康に権力を奪われる宿命を担っていたと言っても過言ではない。

また、秀吉の暴虐性は、公私にわたって記録されている。だが、世の「物書きたち」は、出世物語に心惹かれ、歴史に刻印された事実を忘れたがっている。

5)徳川家康
「鎖国」がこの人物の全てを語っている。典型的な封建君主。彼の無能な側面を、「忠義者」たちがカバーしていた。
例えば、「士・農・工・商」。この徳川時代ほど、農民が苦しんだ時代は他に無い。そして、この徳川時代ほど、商人が栄華を欲しいままにした時代は他に無い。しかし、「士・農・工・商」という階級制度は不滅であった。
すでに記したが、明治以降の軍拡政策、侵略政策が、第二次大戦に走らせ、かつてない悲劇を生み出した。
すべては徳川三百年の「退歩の歴史」から始まったといえるだろう。

  • 編集日時:2011/11/30 00:36:15
  • 回答日時:2011/11/29 19:50:41

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